「正法眼蔵」解説
5 随處作主(ずいしょにしゅとなる)
顧問 余語 道廣(亀山市関町 瑞光寺 住職)
禅の教義というと何やら堅苦しくなってしまいます。少し考えてみて下さい。宗教の教えというものは、服装で譬えるなら既製服であります。自分自身の身丈にしっくり合い、使い勝手のいい服はやはり自分で作る以外にはありません。何時でも何処でも総ての行為は手段即目的の完結的在り方であると言うことが「随處作主」ということの意味であると私は受け取っています。辞書的解説とは少し違っていますが、自分にとっての着心地のいい服に仕立て直した結果であります。「正法眼蔵」という書物の難解さの要因の一つは、単なる仏教教義の解説ではなく如何に自分の身丈に合った服装を身につけるかと言う問題を全身全霊をもって格闘されたものであるからであります。宗教においては、「私にとって」という切実なものが欠落していると、単なる物知りになってしまい、自身にとって生きて働く知恵とは終ぞなり得ません。この意味において「眼蔵」は何の知恵も与えてくれるものではありません。このことは常に「今・此処・私」のあり方が問われていることになります。「脚下照顧」という言葉も「随處作主」の世界と異なっている訳ではありません。
贅語 馬先生 (竹林庵主)
勉強にもいろいろある。高名な学者が二宮尊徳翁を尋ねた。翁は学者に「豆」の一字を墨書させると、自ら育てた豆を取り出して並べ、馬を曳いてきて曰く「どちらが上手か判定させよう」。
もちろん馬は本物の豆をたいらげた。学者も悟るところがあった。
欲惜春
過ごしやすい季節になりました。二十号をお届けします。
この爽やかな季節のような余語住職、竹林庵主のやさしく、含みのある言葉に心を洗われています。(河)
▼如愚如魯(にょぐにょろ)とは…
潜行密用 如愚如魯
(せんこうみつよう ぐのごとくろのごとし)
人間の価値は、他人の見ていないところでの行動で決まるという言葉です。
真に自己を見つめて生きている人は、他人の評価を気にしない。だが最近では、そのような人はほとんどいなく人の目ばかり気にして行動し、裏では何をしているか解らない人が多くなっています。しかし他人が見ていない所での行いにこそ、人間の真価は問われているのではないでしょうか?
ささやかな仕事、目立たぬ仕事にベストを尽くし、利益や名前・肩書きの為でなく、人間としてなすべき事を行動として現してほしいものです。
「潜行密用」 潜に目立たぬように行うこと
「如愚如魯」 愚者のように振る舞うこと
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