「正法眼蔵」解説
4 磨甎作鏡(ませんさきょう)
顧問 余語 道廣(亀山市関町 瑞光寺 住職)
「正法眼蔵古鏡」において師の南嶽と弟子馬祖との問答が取り上げられています。坐禅一筋の馬祖に対して南嶽が問います。「何のために坐禅をしているのか」と。馬祖は「仏になるためです」と答える。そこで南嶽は瓦を持ち来たりて石で磨し始める。馬祖は問う「瓦を磨してどうされますか」。南嶽は答える。「瓦を磨して鏡にするのだ」。馬祖は問う「瓦を磨しても鏡にはなりません」南嶽は答える「坐禅して、なんで仏になれるものか」古来より禅門において有名な問答です。道元禅師は瓦を磨せば必ず鏡になるのだと言います。人間の生涯を手段と目的の連鎖としてしか意味がないと考えている人にとっては理解出来ない世界であるが故に「仏法は人の会するにあらず」とも言われます。結論から言いますと「人間が人間であること」「私が私であること」が磨甎作鏡であることなのです。欲望的な人間根性は手段と目的の連鎖の人生でありますが、磨甎作鏡の宗教的消息とは、人生においての総ての物事は総て方向性を持ちつつ、その時、その場において成就していると受け取る在り方のことであります。「馬祖の馬祖となるとき、坐禅すみやかに坐禅となる」風光が磨甎作鏡と言われるものであります。
贅語 このまま (竹林庵主)
禅浄二門全く別のようだが、真宗にも、こんな問答がある。
上人「この身このままのお救けであるぞ」。信者「この身このままのお救けですね」。すると上人「ちがう、この身このままのお救けだ」。ハッと気付いた信者「ありがとうございます」と素直に頭を下げた。すかさず上人「そこだ!」
欲惜春
最近目にしたこころ和む問答?。
福井県丸岡町の新一筆啓上賞の北尾陽子さんの作品。夫へ「今度、生まれ変わるとしたらスラッとした女らしい出来る女にうまれたいわぁ」夫「何や、今度は俺とは一緒になりたないんか?」
十八号です。ご寄稿下さいました瑞光寺・余語住職に厚くお礼申し上げます。(河)
▼如愚如魯(にょぐにょろ)とは…
潜行密用 如愚如魯
(せんこうみつよう ぐのごとくろのごとし)
人間の価値は、他人の見ていないところでの行動で決まるという言葉です。
真に自己を見つめて生きている人は、他人の評価を気にしない。だが最近では、そのような人はほとんどいなく人の目ばかり気にして行動し、裏では何をしているか解らない人が多くなっています。しかし他人が見ていない所での行いにこそ、人間の真価は問われているのではないでしょうか?
ささやかな仕事、目立たぬ仕事にベストを尽くし、利益や名前・肩書きの為でなく、人間としてなすべき事を行動として現してほしいものです。
「潜行密用」 潜に目立たぬように行うこと
「如愚如魯」 愚者のように振る舞うこと
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