「正法眼蔵」解説について
2 自受用三昧(じじゅゆうざんまい)
顧問 余語 道廣(亀山市関町 瑞光寺 住職)
最初の「自」は「みずから」でなく「おのずから」と読んでいただきたいのです。気が付いたら「私」という人間はこの世に在り、私の生命(いのち)は私のものでありながら、実際には私の自由にはならない、すべて(三昧)が、おのずからなる生命の働きに従っています。この授かった(受用)生命の御縁に従って生活していくべく方向性を見定める在り方のことを自受用三昧と小生は理解しております。それでは自受用三昧に生きる在り方とはどういうものでありましょうか。それは前回申し上げたように自分の行為のすべてを「〜ため」にするのではなく、「自己の生命の歩み」とすることに外なりません。それは仕事や奉仕作業、食事やトイレ等々のすべての行為を等しい価値として生活することであり、何時でも何処でもが私にとっての正念場ということになります。自分の欲望に邁進する行為のみを正念場というのは自受用三昧的人生ではありません。日常のすべての営みが、私の「いのち」の歩みにおいて何ら違いはありません。そのことに気付かせて下さるのが御薬師さまの広大なご利益なのであります。
余語住職のこと 顧問 倉島 昌行(四天王寺 住職)
余語老子の努力家ぶりは若い時から変わっていない。三十代の頃に二人で毎週一冊づつ読み忘れている新書版程度の哲学書を読んで寸評を書くという「カセ」をはめた。半年位は行持を努めながら必死になって師の後追いかけた。今思い出すといい範をたれて頂いたと感謝している。
欲惜春
鈴鹿峠の麓、関宿の面影の残る旧道から少し入ったところに庭一杯皐月に覆われた静かな瑞光寺があります。6月の花の季節は見事です。かつて家康も宿泊したと言う由緒あるお寺です。その家康が食べた柿の種から育ったのが写真の「権現柿」。樹齢400年近い古木です。今、秋の紅葉はと、期待しているところです。(河)
▼如愚如魯(にょぐにょろ)とは…
潜行密用 如愚如魯
(せんこうみつよう ぐのごとくろのごとし)
人間の価値は、他人の見ていないところでの行動で決まるという言葉です。
真に自己を見つめて生きている人は、他人の評価を気にしない。だが最近では、そのような人はほとんどいなく人の目ばかり気にして行動し、裏では何をしているか解らない人が多くなっています。しかし他人が見ていない所での行いにこそ、人間の真価は問われているのではないでしょうか?
ささやかな仕事、目立たぬ仕事にベストを尽くし、利益や名前・肩書きの為でなく、人間としてなすべき事を行動として現してほしいものです。
「潜行密用」 潜に目立たぬように行うこと
「如愚如魯」 愚者のように振る舞うこと
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