「正法眼蔵」の解説について 顧問 倉島 昌行(四天王寺 住職)
正法眼蔵は永平寺を開かれた日本曹洞宗の鼻祖道元禅師(01200-1253)がお示しになられたほぼ百巻になろうかと言う大部の暖皮肉であります。
この度、禅学の第一人者である余語道廣老師にご提唱頂くことになりました。何度でも読み返し体現して頂きたいものであります。我々は修證義を身近に手にしますが、その原点正法眼蔵は中々眼にすることが出来ません。
平成十七年の今、この今が大事なことであります。
1 只管打坐 顧問 余語 道廣(亀山市関町 瑞光寺 住職)
この言葉は禅の世界に少しでも関心をお持ちの人なら親しい禅語であると思われます。一般的には「ひたすら坐禅に打ち込む」という程の意味で受け取っておられても間違いではありません。しかし「ひたすら坐禅に打ち込む」とは一体どういうことなのでしょうか。無論、坐禅を中心とした日常生活が出来れば理想的でありましょうが、それが可能なのは一部の専門の道場以外にはありません。それでは誰でもが出来なければ只管打坐は一部の人に限られた特別のものになってしまいます。宗教は何時でも何処でも総ての人に開かれてあるものでなければなりません。只管打坐という一句を「ただ坐る」と読んでみてはどうでしょう。それは坐禅をしても何も変わらないということであります。坐禅をしても何も変わらないことが御信心の一番大切なことであります。そのことを道元禅師は「坐禅のために坐禅をする」と表現されています。何かを得る「ため」の御信心は本当の御信心ではありません。自分の日常生活のすべてのことが御薬師さまの「おさずかり」と受け取ることが、只管打坐に生きるということであり、この御信心の世界に遊ぶのは、御自身の、おのずからの「気付き」の世界であります。
欲惜春
会報第十号です。瑞光寺の余語ご住職に「正法眼蔵」の解説をご執筆いただくことになりました。しばらくの間、奇数月にこのシリーズをお送り致しますのでご期待ください。
紙面の関係上ご住職のご紹介は十二号に回させて頂きます。(河)
▼如愚如魯(にょぐにょろ)とは…
潜行密用 如愚如魯
(せんこうみつよう ぐのごとくろのごとし)
人間の価値は、他人の見ていないところでの行動で決まるという言葉です。
真に自己を見つめて生きている人は、他人の評価を気にしない。だが最近では、そのような人はほとんどいなく人の目ばかり気にして行動し、裏では何をしているか解らない人が多くなっています。しかし他人が見ていない所での行いにこそ、人間の真価は問われているのではないでしょうか?
ささやかな仕事、目立たぬ仕事にベストを尽くし、利益や名前・肩書きの為でなく、人間としてなすべき事を行動として現してほしいものです。
「潜行密用」 潜に目立たぬように行うこと
「如愚如魯」 愚者のように振る舞うこと
|